大阪城にちかい天王寺区清掘町という
ところで生まれる。
谷町6、高津中学、明星学園、なども近い。
1950年12月11日。射手座。A型。
父は、絵を描く人で新聞記者としても共同通信にいて
小さい頃に絵を描く姿をみて育つが躾には厳しい父でした。
父の友人には神彰氏(世界的プロモーター、アートフレンド主宰、北の家族、初代社長)や山口淑子(李香蘭)など、クライアントにNHK、サクラクレパス、カルピスなど。
父が39才でなくなり
母、姉2人、妹1人、私の5人家族となる。私はたしか幼稚園の5才でした。
その後、母親によって育てられる、そして父の企画したものを生かして
母のちからで当時カルチャーセンター
『生活文化教室』を開校。約500名の生徒があつまる。
(ちなみに母は17才の頃、笹川良一、良平氏の会社の秘書を勤める。)
当時はカルチャーセンターがほかにはなかったこともあって
結構、人気があったようです。
茶道、華道、短歌、古美術研究会、書道、ダンス、日本舞踊、写真、などいろいろな
講座がありました。
家は、白い壁の赤い屋根のモダンな家で広いフローリングルームがあって、
カルチャーもそこで営まれました。松下電器から電化製品を寄贈いただいた
こともあったようです。
また、母は福祉活動も活発に動いていて
関西テレビの放映や
サンケイ新聞などもにおおきく掲載されたりもしていました。
江村信一ホームページのコンセプト&システムの中の
ルーツにもあります。
江村信一の2才、3才、4才、5才、のころは
父が絵の仕事をしている影響もあって絵を描くことが好きだったようです。
そして小学校に入り絵と音楽、工作が得意でした。
ちかくの
和田アキ子の叔父さんにあたる方からおおきな紙をどっさりいただき
それに絵をたくさん描いていました。そのころはかわいい絵と言うより
戦艦や戦闘機など男の子らしい絵が多かったようです。
小学3年のときに担任の先生があの『よかいち』の榊莫山先生で
いま思えばびっくりですが父がPTAの原稿も描いていたので
よく莫山先生が家に原稿をとりにこられていたそうです。
その莫山先生に絵と書道と自由な発想の影響を無意識に受けました。
音楽では楽器のハーモニカが得意でよく代表で演奏していた記憶も
あります。工作では木を拾ってきてはいろいろな物を作っていました。
ただ体育はにがてでしたが野球ではいつもピッチャーをやっていました。
中学に入って
クラブ活動は美術系ではなくスポーツを選択して卓球部に所属しました。
運動神経はよくなかったようですが、そこそこいい線までいったようです。
1年のときに絵画で学校を代表して賞をいただき
おおきな自信となりました。
高校に入って
ますます卓球に情熱を燃やしその当時の根性や忍耐という言葉が
壁にはってあったように思えます。新人大会で大阪府のベスト16まで
勝ち進みました。小学、中学のころの運動音痴といわれていた
コンプレックスがようやく自信というモードに
入っていくのがこのころからでした。
その後2002年にはあこがれの元、世界卓球チャンピオンの山中教子さんと共著で『ほわん』という卓球をテーマにした絵本を出版。
いま
思えば、このころに真剣にとりくんでいいた卓球のおかげで
心の持ち方、マインドの面での自己啓発における部分が培われた気がする。
そして
社会人となって絵を描くことを仕事にする
という夢を描きながら、いろいろな仕事に就く。セールスをはじめとして
25までにさまざまな職を体験しました。特に、セールスでは
会社ではいつも成績がトップクラスで『普段はおとなしい江村がなんでや?』
と、会社がおどろいていたようです。
たしかに、そのころから『心の法則』を生かしていました。
18〜25才までは
絵の仕事につく夢をもちながらいろいろな仕事を体験して
20才の時に出会った、漫画家、中島たを先生の影響がおおきくこの世界に入るきっかけだったと思います。またグラフィックデザイナーの安井志摩子さん(もと早川良雄事務所)、プロデューサーでは堀内登久子さん(株)にほんれいあうと、社長(株)アクセプト 取締役他。
漫書家の黒田クロ、ほかたくさんの人の影響とバックアップを受けました。
18才に就職した大日本印刷系列大日本ポリマーでは
プラスチック成形品の図面を描く仕事で一部デザインも手がけていました、
立体デザイン、インダストリアルデザインのようなことを少しやって2年半で
退社して漫画家の中島先生の扉をたたく。20才のころ。
当時、家が経営していた大阪守口市、喫茶店『ハウマッチ』では姉2人と母と妹がお店を営んでいました。次女、由紀姉の友人、伊藤銀次(音楽家として、わらっていいともなどのテーマソングでおなじみ)や友部正人らがよく遊びに来ていました。
絵やデザインの学校や美大などを通過せず
個人的にプロのデザイナーや漫画家に教わりながら仕事をとってきて覚えるという
実践的なやりかたでやってきました。
グラフィックデザイン、テキスタイルデザイン、
インダストリアルデザイン、なども仕事ですこしづつ通過して
26才で大阪心斎橋で、
いきなりキャラクターデザインオフィス『ディフォルム』を構える。
1976年ごろ。いま思えば、かなりおもいきった行動だったと思いますがこれが
あったことで今につながっていると思います。
仕事は
営業経験があったので
いろいろな会社からの依頼がたくさんありました。
当時、サンリオのキティが誕生しておおきくキャラクターの世界で飛躍していた
ころでキャラクターに特化して仕事を拡げたことは正解でした。
仕事を覚えるために外部のアーティストにも絵を依頼して
自分の作品と外部の人の作品を同時に納品していた。結果的にそれが
せまい範囲にとどまらずによかったことだと思います。

この上記のなかにある
キャラクターライブラリーの左下2段、6キャラクターが当時の作品で
関西電力、コクヨ、ナカバヤシ、アサヒペンなど
キャラクター商品も200アイテムは展開していた。
そして27才のころ
サンリオにいきなり営業をする。社長室の横の受付ユニコーンの人形のモニターに
こんにちは『大阪からきました。作品を見ていただけますか?』
社長にはお会いできなかったが企画制作課長とお会いでき、
弊社のキャラクターを使いませんか?
というプレゼンテーションしたところ
あいにく日本のアーティストは基本的にはライセンスしません。
という課長の意見でした。
でも
もっていた作品を気に入っていただけ
『よかったらここへ机をおかないか?』という展開となりましたが
こちらとしては大阪に弊社のオフィスがあるので、、、、
ということで大阪にもどって考える。そして、いろいろな人に相談する。
つづく