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カテゴリ:江村信一について

  • 江村信一パンフ
    [ 2010-12-18 10:41 ]
  • 2010あけましておめでとうございます
    [ 2010-01-02 08:39 ]
  • 江村信一の生まれた環境とキャラクター
    [ 2009-10-07 22:21 ]
  • サンリオに入社
    [ 2009-10-05 20:54 ]
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  • 父の作品
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  • 4才〜5才のころ
    [ 2004-10-16 06:11 ]
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    [ 2004-09-19 12:54 ]
  • 9才のころ
    [ 2004-08-16 06:16 ]

江村信一パンフ

by emrcis | 2010-12-18 10:41 | 江村信一について

2010あけましておめでとうございます


『みんなで手に手をとってほっとする環境をめざしましょう』キャッチスローガン2010。
大阪から上京してから30年がたちました。1979年から開発したキャラクター集合。
1979年よりサンリオに在籍して1984年に六本木にてCISを設立。さまざまなヒットキャラクターに恵まれ2000種アイテム約1200万個のキャラクター商品を世に発信。一貫して『ほっとする環境づくり』を基本コンセプトとしてキャラクターにパステルシャインアートに思いを込めて制作、講座、イベント、講演など普及活動をしてまいります。本年も宜しくお願いします。

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キャラクターデザインという仕事に携わり現在までに35年。大阪から上京して
サンリオに入社して30年。
そして、パステルシャインアートを開発して15年、
キャラクターデザインと『こころの学校』を作ろうと思い
六本木から恵比寿などに デザインオフィスを設立、運営してから25年。

キャラクターデザインはかわいい商品や広告などに展開して
それを持つ事で見る事で心がほっとする癒される:受動療法。
そして、パステルシャインアートは、ほっとする絵を自分の手で
描いてもらうよろこんでもらう:能動療法。
という、35年間の活動している経緯をみると一貫してヒーリングセラピーアートを
手がけてきていることがわかる。

見る事から描く事に移行しながら両方のクリエイティブにムーブメントや
波紋ををひろげていくミッション(使命)をもちつつ、
これからも一人でも多くの人に
この感動をあじわっていただけたらという思いです。

絵を描く楽しみを自分の中にだけ持つのではなく
より多くの人にこの歓びを感じ取ってほしい『人はみな天才』
という思いから開発したパステルシャインアートメソッドを
日本から世界にひろがるように願っている。

江村信一

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by emrcis | 2010-01-02 08:39 | 江村信一について

江村信一の生まれた環境とキャラクター

大阪城にちかい天王寺区清掘町という
ところで生まれる。
谷町6、高津中学、明星学園、なども近い。
1950年12月11日。射手座。A型。

父は、絵を描く人で新聞記者としても共同通信にいて
小さい頃に絵を描く姿をみて育つが躾には厳しい父でした。
父の友人には神彰氏(世界的プロモーター、アートフレンド主宰、北の家族、初代社長)や山口淑子(李香蘭)など、クライアントにNHK、サクラクレパス、カルピスなど。
父が39才でなくなり
母、姉2人、妹1人、私の5人家族となる。私はたしか幼稚園の5才でした。

その後、母親によって育てられる、そして父の企画したものを生かして
母のちからで当時カルチャーセンター
『生活文化教室』を開校。約500名の生徒があつまる。
(ちなみに母は17才の頃、笹川良一、良平氏の会社の秘書を勤める。)

当時はカルチャーセンターがほかにはなかったこともあって
結構、人気があったようです。

茶道、華道、短歌、古美術研究会、書道、ダンス、日本舞踊、写真、などいろいろな
講座がありました。

家は、白い壁の赤い屋根のモダンな家で広いフローリングルームがあって、
カルチャーもそこで営まれました。松下電器から電化製品を寄贈いただいた
こともあったようです。

また、母は福祉活動も活発に動いていて
関西テレビの放映や
サンケイ新聞などもにおおきく掲載されたりもしていました。
江村信一ホームページのコンセプト&システムの中の
ルーツにもあります。

江村信一の2才、3才、4才、5才、のころは
父が絵の仕事をしている影響もあって絵を描くことが好きだったようです。
そして小学校に入り絵と音楽、工作が得意でした。
ちかくの
和田アキ子の叔父さんにあたる方からおおきな紙をどっさりいただき
それに絵をたくさん描いていました。そのころはかわいい絵と言うより
戦艦や戦闘機など男の子らしい絵が多かったようです。

小学3年のときに担任の先生があの『よかいち』の榊莫山先生で
いま思えばびっくりですが父がPTAの原稿も描いていたので
よく莫山先生が家に原稿をとりにこられていたそうです。
その莫山先生に絵と書道と自由な発想の影響を無意識に受けました。

音楽では楽器のハーモニカが得意でよく代表で演奏していた記憶も
あります。工作では木を拾ってきてはいろいろな物を作っていました。
ただ体育はにがてでしたが野球ではいつもピッチャーをやっていました。

中学に入って
クラブ活動は美術系ではなくスポーツを選択して卓球部に所属しました。
運動神経はよくなかったようですが、そこそこいい線までいったようです。
1年のときに絵画で学校を代表して賞をいただき
おおきな自信となりました。

高校に入って
ますます卓球に情熱を燃やしその当時の根性や忍耐という言葉が
壁にはってあったように思えます。新人大会で大阪府のベスト16まで
勝ち進みました。小学、中学のころの運動音痴といわれていた
コンプレックスがようやく自信というモードに
入っていくのがこのころからでした。
その後2002年にはあこがれの元、世界卓球チャンピオンの山中教子さんと共著で『ほわん』という卓球をテーマにした絵本を出版。

いま
思えば、このころに真剣にとりくんでいいた卓球のおかげで
心の持ち方、マインドの面での自己啓発における部分が培われた気がする。

そして
社会人となって絵を描くことを仕事にする
という夢を描きながら、いろいろな仕事に就く。セールスをはじめとして
25までにさまざまな職を体験しました。特に、セールスでは
会社ではいつも成績がトップクラスで『普段はおとなしい江村がなんでや?』
と、会社がおどろいていたようです。
たしかに、そのころから『心の法則』を生かしていました。

18〜25才までは
絵の仕事につく夢をもちながらいろいろな仕事を体験して
20才の時に出会った、漫画家、中島たを先生の影響がおおきくこの世界に入るきっかけだったと思います。またグラフィックデザイナーの安井志摩子さん(もと早川良雄事務所)、プロデューサーでは堀内登久子さん(株)にほんれいあうと、社長(株)アクセプト 取締役他。
漫書家の黒田クロ、ほかたくさんの人の影響とバックアップを受けました。
18才に就職した大日本印刷系列大日本ポリマーでは
プラスチック成形品の図面を描く仕事で一部デザインも手がけていました、
立体デザイン、インダストリアルデザインのようなことを少しやって2年半で
退社して漫画家の中島先生の扉をたたく。20才のころ。

当時、家が経営していた大阪守口市、喫茶店『ハウマッチ』では姉2人と母と妹がお店を営んでいました。次女、由紀姉の友人、伊藤銀次(音楽家として、わらっていいともなどのテーマソングでおなじみ)や友部正人らがよく遊びに来ていました。

絵やデザインの学校や美大などを通過せず
個人的にプロのデザイナーや漫画家に教わりながら仕事をとってきて覚えるという
実践的なやりかたでやってきました。

グラフィックデザイン、テキスタイルデザイン、
インダストリアルデザイン、なども仕事ですこしづつ通過して

26才で大阪心斎橋で、
いきなりキャラクターデザインオフィス『ディフォルム』を構える。
1976年ごろ。いま思えば、かなりおもいきった行動だったと思いますがこれが
あったことで今につながっていると思います。

仕事は
営業経験があったので
いろいろな会社からの依頼がたくさんありました。
当時、サンリオのキティが誕生しておおきくキャラクターの世界で飛躍していた
ころでキャラクターに特化して仕事を拡げたことは正解でした。

仕事を覚えるために外部のアーティストにも絵を依頼して
自分の作品と外部の人の作品を同時に納品していた。結果的にそれが
せまい範囲にとどまらずによかったことだと思います。


この上記のなかにある
キャラクターライブラリーの左下2段、6キャラクターが当時の作品で
関西電力、コクヨ、ナカバヤシ、アサヒペンなど
キャラクター商品も200アイテムは展開していた。

そして27才のころ
サンリオにいきなり営業をする。社長室の横の受付ユニコーンの人形のモニターに
こんにちは『大阪からきました。作品を見ていただけますか?』
社長にはお会いできなかったが企画制作課長とお会いでき、
弊社のキャラクターを使いませんか?
というプレゼンテーションしたところ
あいにく日本のアーティストは基本的にはライセンスしません。
という課長の意見でした。

でも
もっていた作品を気に入っていただけ
『よかったらここへ机をおかないか?』という展開となりましたが
こちらとしては大阪に弊社のオフィスがあるので、、、、
ということで大阪にもどって考える。そして、いろいろな人に相談する。

つづく

by emrcis | 2009-10-07 22:21 | 江村信一について

サンリオに入社

大阪にもどっていろいろな人に相談する
『せっかく自分でやってるのになんで今から会社に入るんや』
応援する人や反対する人。さまざまな意見をもらった。
当時、1978年ごろはサンリオのキャラクターブームが押し寄せ
あちこちからキャラクター依頼が殺到する。
でも、このまま大阪でブームにのっかるのもいいが
我流でやっている自分に疑問をもちかけていた頃で
『今やったらゼロから学べるかもしれん』という思いがふとあった。

仕事はたしかに徹夜が多くキャラクターブームに拍車をかけていた。

企業にあまり勤めたことのない自分にとって
うまくやっていけるかどうか?いろいろ考えた。
でも、あこがれのサンリオで仕事ができる。
よし、このチャンスに乗ろう。
と決めてサンリオに連絡した。

そしたら、サンリオもひきぬきというスタンスではなくて
こちらから希望したという意志を会社に伝えるためか課題を提出ください。
ということだった。
そして、郵便で課題のお手紙がきた。
そこにはテーマとオリジナルキャラクタータッチ、アイテムはハンカチのデザイン。
約、一ヵ月かけて課題に取り組む。
仕事をこなしながらの事で時間をつくる努力をした。

新規キャラクターを提案してデザイン展開して提出。
そして、合格通知がきた。
ただしデザイナーからディレクターへという希望だった。
自分としては、キャラクターを描くことが希望だったが作品の巾の広さをみてか
ディレクターへという意向だった。

でも、まず入ってから様子をみてという事で約1年かけて入社した。
大阪のクライアントにデザイナーを紹介して引き継ぎがうまくいくようにした。
オフィスにアーチスト3人をよんで机を置いてもらって
自分は休業すると宣言して
サンリオに入社。

サンリオに入って
会社に朝、出社してというパターンが最初は慣れなくて
ちょっときつかったが
すこしづつ慣れてきて仕事も覚えてきた。
最初から、キャラクター開発室に入ってオリジナル制作に入るが
イメージがつかめなくて3ヵ月がたち
キティーの仕事も一部参加した。アメリカのサンリオインクにいって
動くキティーのデザイン等もてがけた。

そうこうしているうちにサンリオのカラー、求めているものがつかめてきた。
犬のキャラクタートッピー&クッピーが誕生した。
入社して10ヵ月目ぐらいだった。
いちご新聞にもおおきく出て人気もでてきた。
このブログのサンリオでのキャラクターにいくつか出ています。

そして、キャラクターのロビーラビット2を開発。これはよく売れた。
サンリオの中でもめずらしい配色で紺と白を基調にデザインしてサンリオショップでも
目立ったキャラクターのひとつであった。約80アイテムほど展開された、
タッチも筆で描くアート性のある表現でボーイズに向けたキャラクターのつもりが
中高生の女子にも支持された。

つづく








by emrcis | 2009-10-05 20:54 | 江村信一について

サンリオ時代29才の頃


サンリオ米国インクにてデザインワークする。

by emrcis | 2009-10-04 16:45 | 江村信一について

父の作品



1950年ごろ江村信一の父(江村清春)が雑貨メーカーにデザインした白鳥のマークです。父はデザイナーでHPにもある江村信一のルーツにある
パッケージのデザインなどもてがけていました。


by emrcis | 2005-01-22 16:40 | 江村信一について

父の作品


1940年代、共同通信の記者をしながら中国で、たばこのパッケージをデザイン多数。

by emrcis | 2005-01-19 14:01 | 江村信一について

4才〜5才のころ

by emrcis | 2004-10-16 06:11 | 江村信一について

5才のころ


大阪城に近い大阪市天王寺区で生まれ育つ。

by emrcis | 2004-09-19 12:54 | 江村信一について

9才のころ

by emrcis | 2004-08-16 06:16 | 江村信一について