




父の絵の作品(1940年ごろ)の一部が見つかった。当時、中国にいたころ共同通信の記者をしながら煙草のパッケージを絵とデザインしていた。ぼくが5才の頃39才でなくなりましたが遺伝子は生きています。江村家のルーツを調べるとどうやら狩野派の絵師であることがわかってきました。先祖にあらためて感謝。


右が父左下が神彰氏(世界的なプロモーター、晩年は北の家族代表。

右が父右下2人目が江村信一4才

江村信一0才右は姉と姉と母。抱いてるのは祖母、左は母の妹上が旦那様。


江村の絵のルーツは狩野派だったことがわかった
江村えむら春甫しゅんぽは、京の画家。狩野派の鶴沢探鯨に学ぶ。寛政の禁裏造営の際、障壁画制作に加わる。京の料亭・角屋の襖絵を描く。
鷲尾わしのお隆建たかた1741-1804。公卿。隆熙の子、朝廷に仕えて正二位権大納言に至る。
柳原やなぎはら紀光のりみつ1746-1800。公卿。日野俊光を祖とする文筆で聞こえた名家の子孫。後桜町、後桃園、光格三天皇に歴仕。正四位上、左大弁、参議から昇進を続けて、権大納言、正二位に至る。
京の風物詩大原女の物売りの様子を画にした作品である。大原女の図は、かなりの数の絵師が描いており、屏風画の一部としてはあっても、単独の図柄で描かれるようになったのは、四条派がその嚆矢ではないだろうか、つまりそれほど古い図様ではないということである。おおかた大原女の図に描かれた女性は、逞しくはあっても美人である。この画の女性もたおやかな女が描かれていて、浮世絵のように特定の女性がモデルとなっていたのであろうか、四条派とともに描かれるようになったということは商家の床を飾る画として多く描かれたのであろう。この画は、上級公家の讃があり、また水墨で描かれていて、珍しい作品である。