![]() by emrcis
カテゴリ
全体 CISシーアイエス 絵本 雑誌にプレスリリース キャラクターデザイン パステルシャインアート パッケージ テーマパーク サンリオでのキャラクター ロゴデザイン 展示会・イベント・講演会 ぷよよんキャラクター 松下幸之助キャラクター絵本 平松愛理コラボレーション 山中教子の世界卓球絵本 姫野友美 心療内科医 コラボ 飯田史彦DVDコラボ 太郎メンタルクリニック 江村信一著 NHKおしゃれ工房 キャラクターブック入選 三井石油ーD'BOY 読売新聞 山田まりやコラボ 日本テレビ町亞聖アナ 世界選手権サッカー大会 西郷輝彦30th 阿部聡メディカル SMAPと甥 宇佐美百合子コラボ 石黒直子ピアニスト 高橋洋子の歌 田野聖子の俳優座 野坂礼子コラボレーション 猫砂のデコと犬(LION) 魔法のiらんど EAZZY-DOCK 江村信一について CDジャケット PEACEイベント 空と環境フォトアート 葉祥明の推薦 中田英寿サッカーキャラ 東京都キャラクター CISスタッフ作品 長野県選挙キャラクター ★ベビー英会話絵本 LAWSONローソン ファミリーマート NY羽方美穂子 SONY 子供服にキャラクター 海外へ発信 朝日放送ABCハウジング 西川眞知子コラボレーション キャラクターデザイン2 マダガスカル大統領に絵を寄贈 木村裕一とのコラボ 多湖輝先生と絵本 劇団飛行船キャラクター 綾戸智恵のDVD 秋篠宮様に絵本 日野原重明先生の本にアート 美術の講師としてTVに 七田チャイルド絵本 EAZZY = DOCK AKB48が着る たかの友梨アカデミー エリエールフレンド 多摩美術大学での講演 被災地のキャラクター ベネッセ 銀座伊東屋 ろうきんキャラクター 湯川れい子さん ★最新ニュース ロテマ ココロカ 心屋仁之助コラボ イトーヨーカドーTVCM 南極物語 明治製菓ほか 三菱電機 学研 関西電力 イオングループ 味の素(小泉今日子) 日本ビクター アジア博 ぺんてる 旭化成 NEC NTT長野 バンダイ ★東京キャラクターアート塾 着ぐるみキャラ LINEスタンプ 中島たを先生 北川孝次と2人展 原宿カバ展 海外視察 園キャラ(保育園) 未分類 フォロー中のブログ
安曇野時間 pocari.exblo... 季節を感じて ブーゲンビリアnote NY日記COLORS I LOVE New York 天使の夜 エンタメ&アメリカ写真! ニューヨークの遊び方 猫と地中海 NEW YORK LIFE ジャランジャラン コーヒーでほっと一息・・・ 懐かしいアナログ盤♪ ブリュッセル→東京 日々... ニューヨークでのヨガ生活 フランス存在日記 パリの空気 コーヒー日記 Coffe... *Flower Esse... 坊ちゃんの団子日記 ルーマニアへ行こう! L... こにくのオーストリアの街... フィレンツェ田舎生活便り パリでリラックス パリの表通り イタリア大好き ・・・花に想いをのせて・・・ NewYorkerへの道 おいしくなーれ ドイツに出会う 李康則の独り言 西郷輝彦のつぶやきblog New York Tod... 英国メディカルハーバリス... KazのNY庭生活 自然のキャンバス 毎日手紙を描こう★貰うと... ワシントン広場の夜は更けて ナチュラル鎌倉暮らし こころの色 薬膳のチカラ 稲葉一枝書 ///DE... 代官山だより♪ 時々日和「映った・感じた... 英国メディカルハーバリスト 知華ワールドへようこそ フィンランドマガジン v... 食卓の風・・・ New york Taste 更紗の国から ともこのブログ 読む... パステルシャインアート銀座本部 EAZZY-DOCKの広場 シチリア時間Blog フィレンツェ田舎生活便り2 データー保存ファイル KazのNY庭生活 2 山田まりや公式ブログ「ま... 今日 何する? ビーズ工房 Bijout... 光と風の中で 人生で大切なことは全てオ... 手で遊ぼう! シマウマ絵日記 イラストレーターBOOS... Shin こにくのプラハの街角から... 1日1絵 Love&Light O... 伊藤 祥子のweblog... フィトテラピーで今日も素... slow comedy ... aimiee maya's memo ライフログ
検索
タグ
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
大阪城にちかい天王寺区清掘町という
ところで生まれる。 谷町6、高津中学、明星学園、なども近い。 1950年12月11日。射手座。A型。 父は、絵を描く人で新聞記者としても共同通信にいて 小さい頃に絵を描く姿をみて育つが躾には厳しい父でした。 父の友人には神彰氏(世界的プロモーター、アートフレンド主宰、北の家族、初代社長)や山口淑子(李香蘭)など、クライアントにNHK、サクラクレパス、カルピスなど。 父が39才でなくなり 母、姉2人、妹1人、私の5人家族となる。私はたしか幼稚園の5才でした。 その後、母親によって育てられる、そして父の企画したものを生かして 母のちからで当時カルチャーセンター 『生活文化教室』を開校。約500名の生徒があつまる。 (ちなみに母は17才の頃、笹川良一、良平氏の会社の秘書を勤める。) 当時はカルチャーセンターがほかにはなかったこともあって 結構、人気があったようです。 茶道、華道、短歌、古美術研究会、書道、ダンス、日本舞踊、写真、などいろいろな 講座がありました。 家は、白い壁の赤い屋根のモダンな家で広いフローリングルームがあって、 カルチャーもそこで営まれました。松下電器から電化製品を寄贈いただいた こともあったようです。 また、母は福祉活動も活発に動いていて 関西テレビの放映や サンケイ新聞などもにおおきく掲載されたりもしていました。 江村信一ホームページのコンセプト&システムの中の ルーツにもあります。 江村信一の2才、3才、4才、5才、のころは 父が絵の仕事をしている影響もあって絵を描くことが好きだったようです。 そして小学校に入り絵と音楽、工作が得意でした。 ちかくの 和田アキ子の叔父さんにあたる方からおおきな紙をどっさりいただき それに絵をたくさん描いていました。そのころはかわいい絵と言うより 戦艦や戦闘機など男の子らしい絵が多かったようです。 ![]() 小学3年のときに担任の先生があの『よかいち』の榊莫山先生で いま思えばびっくりですが父がPTAの原稿も描いていたので よく莫山先生が家に原稿をとりにこられていたそうです。 その莫山先生に絵と書道と自由な発想の影響を無意識に受けました。 音楽では楽器のハーモニカが得意でよく代表で演奏していた記憶も あります。工作では木を拾ってきてはいろいろな物を作っていました。 ただ体育はにがてでしたが野球ではいつもピッチャーをやっていました。 中学に入って クラブ活動は美術系ではなくスポーツを選択して卓球部に所属しました。 運動神経はよくなかったようですが、そこそこいい線までいったようです。 1年のときに絵画で学校を代表して賞をいただき おおきな自信となりました。 高校に入って ますます卓球に情熱を燃やしその当時の根性や忍耐という言葉が 壁にはってあったように思えます。新人大会で大阪府のベスト16まで 勝ち進みました。小学、中学のころの運動音痴といわれていた コンプレックスがようやく自信というモードに 入っていくのがこのころからでした。 その後2002年にはあこがれの元、世界卓球チャンピオンの山中教子さんと共著で『ほわん』という卓球をテーマにした絵本を出版。 いま 思えば、このころに真剣にとりくんでいいた卓球のおかげで 心の持ち方、マインドの面での自己啓発における部分が培われた気がする。 そして 社会人となって絵を描くことを仕事にする という夢を描きながら、いろいろな仕事に就く。セールスをはじめとして 25までにさまざまな職を体験しました。特に、セールスでは 会社ではいつも成績がトップクラスで『普段はおとなしい江村がなんでや?』 と、会社がおどろいていたようです。 たしかに、そのころから『心の法則』を生かしていました。 18〜25才までは 絵の仕事につく夢をもちながらいろいろな仕事を体験して 20才の時に出会った、漫画家、中島たを先生の影響がおおきくこの世界に入るきっかけだったと思います。またグラフィックデザイナーの安井志摩子さん(もと早川良雄事務所)イラスト参考作品. 、プロデューサーでは堀内登久子さん(株)にほんれいあうと、社長(株)アクセプト 取締役他。
漫書家の黒田クロ、ほかたくさんの人の影響とバックアップを受けました。 18才に就職した大日本印刷系列大日本ポリマーでは プラスチック成形品の図面を描く仕事で一部デザインも手がけていました、 立体デザイン、インダストリアルデザインのようなことを少しやって2年半で 退社して漫画家の中島先生の扉をたたく。20才のころ。 当時、家が経営していた大阪守口市、喫茶店『ハウマッチ』では姉2人と母と妹がお店を営んでいました。次女、由紀姉の友人、伊藤銀次(音楽家として、わらっていいともなどのテーマソングでおなじみ)や友部正人らがよく遊びに来ていました。 絵やデザインの学校や美大などを通過せず 個人的にプロのデザイナーや漫画家に教わりながら仕事をとってきて覚えるという 実践的なやりかたでやってきました。 グラフィックデザイン、テキスタイルデザイン、 インダストリアルデザイン、なども仕事ですこしづつ通過して 26才で大阪心斎橋で、 いきなりキャラクターデザインオフィス『ディフォルム』を構える。 1976年ごろ。いま思えば、かなりおもいきった行動だったと思いますがこれが あったことで今につながっていると思います。 仕事は 営業経験があったので いろいろな会社からの依頼がたくさんありました。 当時、サンリオのキティが誕生しておおきくキャラクターの世界で飛躍していた ころでキャラクターに特化して仕事を拡げたことは正解でした。 仕事を覚えるために外部のアーティストにも絵を依頼して 自分の作品と外部の人の作品を同時に納品していた。結果的にそれが せまい範囲にとどまらずによかったことだと思います。 ![]() この上記のなかにある キャラクターライブラリーの左下2段、6キャラクターが当時の作品で 関西電力、コクヨ、ナカバヤシ、アサヒペンなど キャラクター商品も200アイテムは展開していた。 そして27才のころ サンリオにいきなり営業をする。社長室の横の受付ユニコーンの人形のモニターに こんにちは『大阪からきました。作品を見ていただけますか?』 社長にはお会いできなかったが企画制作課長とお会いでき、 弊社のキャラクターを使いませんか? というプレゼンテーションしたところ あいにく日本のアーティストは基本的にはライセンスしません。 という課長の意見でした。 でも もっていた作品を気に入っていただけ 『よかったらここへ机をおかないか?』という展開となりましたが こちらとしては大阪に弊社のオフィスがあるので、、、、 ということで大阪にもどって考える。そして、いろいろな人に相談する。 つづく
by emrcis
| 2009-10-07 22:21
| 江村信一について
|
ファン申請 |
||